幕間5

安武 陸
学生向けの安アパート。 その一室の扉が開かれる。
安武 陸
通路にジャージを着た陸が出てくる。 運動靴のつま先を軽く床で叩いて、公道へ。
安武 陸
朝のランニングコースを走る。 いつも通りのルーチンワーク。
安武 陸
12月の冷えた空気も、体を動かしていれば気にならなくなってくる。
安武 陸
標と共に、何度も走った道だ。
安武 陸
標は毎日トレーニングに付き合っていた訳ではないが、それでも忙しい中、結構面倒を見てくれていた。
安武 陸
最初は渡されたトレーニングメニューを満足にこなすことすらできなかった。 随分と面倒をかけた、と思う。
安武 陸
今では、やれと言われたことをやれるくらいになっている。
安武 陸
それを言ってくれる人はいないけれど。
安武 陸
早朝の住宅地は、誰もいないみたいに暗く、静かだ。
安武 陸
運動靴の小さな靴音と、自分の呼吸だけが聞こえる。
安武 陸
標のいない生活には、まだ慣れない。
安武 陸
というよりも、実感がない。 連絡を無視されることはあったし、数日会わないこともあった。 こんなこともあるよな、と感じる。
安武 陸
そんな中で、標を知るハンターと会話する時だけ。
安武 陸
どうしようもない歪みを見せつけられる。
安武 陸
死とは何か、と考えると。
安武 陸
そりゃあもう、色々と考えられるけど。
安武 陸
自分の存在が消えること、誰からも思い出されないこと、なんて定義することもできる。
安武 陸
海野標は死んだのか、と考えると、答えは是となる。
安武 陸
それ以外を、導ける道理がない。
安武 陸
では海野標は自殺したのか、と考えると。
安武 陸
わからない。
安武 陸
彼が何を考えていたのか、何を求めていたのか、それを導く道理もない。
安武 陸
街を望む高台で、一息つく。 自販機にスマホを当てて、スポーツドリンクを購入した。
安武 陸
冷たい飲料が、喉を落ちてゆく。
安武 陸
──もし、誰も標を覚えていない世界が、標の望んだものだとしたら。
安武 陸
俺はそれを受け入れるべきだ。
安武 陸
何かが戻ることを、何かを覆すことを期待してはいけない。
安武 陸
ずっと標と連絡が取れず、誰も標を覚えておらず、誰も自分を守ってくれない。
安武 陸
そんな世界で、生きていくべきなんだ。
安武 陸
標を知らない街は、いまだ朝日が昇らない。
安武 陸
深夜のように、暗闇が満ちている。
安武 陸
知らないことは罪ではない。 でも、何も知らないまま、がむしゃらに動くなんてことはできない。
安武 陸
標を求めて、クロニック・ラヴのように誰かを傷つけるかもしれない。 標自身を傷つけることになるかもしれない。
安武 陸
俺が知っているのは、叶恵と、光葉と、修也のことを任されたってことだけ。
安武 陸
俺が師に命じられたのは、それだけ。
安武 陸
もっと言ってくれればよかったのに。 もっと話してくれればよかったのに。
安武 陸
そう思っても、何も聞かなかったのも自分自身だ。
安武 陸
今できることをするしかない。
安武 陸
半分ほど空にしたペットボトルをポケットにねじ込み、また走り出す。
安武 陸
空はまだ白み始めてすらいない。 夜明けは遠そうだった。
敷村 修也
『すみません、安武さんに相談したいことがあるんですけど』
敷村 修也
そんな書き出しで安武さんにメッセージを送る。
あの夜から数日たっても自分の中の違和感がぬぐえない。
敷村 修也
温かい思い出と、そこに何かがぽっかりと空いてしまったような不安。
空っぽの写真立てと、何かの写真を見た記憶がうまくつながらない。
敷村 修也
こんな時に相談するべき相手がいたような気がするが、うまく思い出せなかった。ただ、赤木さんでも光葉さんでもなく、安武さんが真っ先に思い浮かんだ。
敷村 修也
何故だかよくわからない。
敷村 修也
『安武さんの都合のいい日時はありますか?』
『俺は12/23なら終業式なので昼からでも……』
敷村 修也
そんな予定の調整も本当なら要らなかった気がする。
安武 陸
『23日?』
安武 陸
OK!というスタンプが返ってくる。
敷村 修也
どこも2学期が終わったところなのか、喫茶店も家族連れやカップル、学生でにぎわっている。
敷村 修也
「すいません、お待たせしました」
安武 陸
「おー! 修也くんこの間ぶり!」
敷村 修也
「そうですね、ぶりっていうほどもないですけど」
安武 陸
「俺も来たばっかりで注文まだなんだ。 修也くん何にする?」
安武 陸
メニューをよこして、ケーキセットがおすすめだってさ、なんて言う。
敷村 修也
「そうですね、ホットココアにしておきます」
安武 陸
ん、と言って店員を呼ぶボタンを押し、注文する。 ケーキセットを勧めた割に、自分はコーヒーだけを頼んだ。
敷村 修也
「今日はどこもこんな感じですね。なんだかあまりクリスマスって感じもしないですけど……」
安武 陸
「そうだな~。 平日だしなぁ」
安武 陸
ゆうて大体クリスマスって平日だけど……なんて言いながら、お冷に口をつける。
安武 陸
「えーっと、相談だっけ」
敷村 修也
「ええ、そうなんです」
敷村 修也
「………えーっと」
敷村 修也
「うーん……なんて言ったらいいか難しいんですけど……」
安武 陸
店員が来て、ココアとコーヒーを置いてゆく。 どうも、なんて軽く応える。
敷村 修也
「なんか、この前の夜から違和感があるんです。19日の夜から」
安武 陸
「19日の、夜……」
敷村 修也
ココアには口をつけずただ手を温めるだけ。
敷村 修也
「……ちゃんと最後がどうなるかを見届けたのはこの前がはじめてなんで、その、よくあることなのかもわからないんですけど」
敷村 修也
「なにかが無くなったような気がするんです。何か大事なものがあったような……」
敷村 修也
「松井さん……あ、騎士団でいろいろ教わってる人なんですけど、松井さんはそんなことないって言ってて……」
安武 陸
「…………」
安武 陸
「19日の夜、か」
敷村 修也
「はい」
安武 陸
頬杖をついて、窓の外を眺める。 街はクリスマスカラーに彩られている。
安武 陸
「……俺も19日の夜から、変わったことがある」
安武 陸
あまり言いたくないな、と思う。 結果は分かっているから。
敷村 修也
「そうなんですか?」
安武 陸
「周りの人がさ、あることを忘れてるんだ」
安武 陸
「絶対に知っているはずなのに、最初から知らなかったみたいになってる」
安武 陸
「俺から見たらどう考えたっておかしいのに、それが当然って感じになってる」
敷村 修也
「………」
敷村 修也
「俺の違和感はそこまで……いや……うーん……」
敷村 修也
「……確かに、何かつじつまがあわないような気がするんです」
敷村 修也
「あるべきもの、あったはずのものがないっていうか……」
安武 陸
修也の顔を見る。
安武 陸
「そっか。……そっかぁ」
安武 陸
「修也くんは、ちょっと違うんだな」
安武 陸
ポケットから、鈍く銀色に光るペンダントトップを取り出す。
安武 陸
「……これ、見覚えある?」
敷村 修也
「………どこかで見た、とは思います」
安武 陸
蓋を開く。中には、2人の人物が写った写真。
安武 陸
「……この写真。 変な所、ない?」
安武 陸
真ん中に、不自然に空いた空白。 誰に見せても、それに疑問を抱かなかった。
敷村 修也
ペンダントトップの中には六分儀小学校の文化祭のものと思われる写真。
それに笑顔でうつるひなちゃんと、見覚えのない―――1人が写っている。
敷村 修也
1人?
敷村 修也
「安武さん、これ……なんでこんな写真を持ってるんですか?」
敷村 修也
不自然に空いた空間よりも、真っ先に気になった。
安武 陸
「落としたから、拾ったやつだよ」
安武 陸
「俺の師匠──海野標が」
敷村 修也
「海野……標………」
安武 陸
写真の真ん中あたりを示す。
敷村 修也
奇妙な空間が、ひなちゃんともう1人の間にある。
安武 陸
「ここ、人間ひとり分開いてるの、分かる?」
敷村 修也
「……ええ、はい。もし2人で写真をとるなら、こうはなりませんよね」
敷村 修也
自分が感じていた強い違和感を思い出す。
安武 陸
「分かるんだ」
安武 陸
「修也くんには……分かるんだな……」
敷村 修也
「?ええ、だってこんなに……」
敷村 修也
おかしいのに。気付けなかった。
安武 陸
「……言っただろ、周りの人があることを忘れてるって。俺から見たらどう考えたっておかしいのに、それが当然って感じになってる」
安武 陸
「誰もこの写真を見て、変だと思わなかった」
敷村 修也
「………」
安武 陸
「……師匠のことを、皆が忘れてるんだ」
安武 陸
スマホを取り出す。 カメラロールにある写真をいくつか見せる。 どれも、不自然な空白が空いている。
安武 陸
「これ、全部師匠がいたはずの写真」
敷村 修也
「……確かに、人1人いないような気がします。風景写真ばかりにも見えそうですけど……」
敷村 修也
風景写真のようでいて、何かがおかしいとはっきりわかる。
安武 陸
明確に、片方に空間の空いている自撮りもある。
安武 陸
「……師匠を誰も覚えてないし、師匠がいた痕跡もなくなってるんだ」
安武 陸
「俺は、なんでか覚えてるけど……」
敷村 修也
「…………」
敷村 修也
「だから、俺の記憶もなにか抜け落ちた気がするんですね」
安武 陸
「そうかもしれない。 でも……、修也くんは思い出したんだな」
安武 陸
「思い出せる人間も、いるんだな……」
安武 陸
ペンダントの中の、古い写真を見る。 不自然な空白。 誰も気付かないはずの空白。 でも、それを見れる人間はいる。
敷村 修也
「……思い出した、っていうほどではないです。なんで空っぽの写真立てがあったのかとか、なんで曙光騎士団にいるのかっていう違和感の原因がはっきりしたってくらいで……」
安武 陸
深いため息。
安武 陸
「でっかい違いだよ。 でっかい違いだ」
安武 陸
ほとんど手を付けていないコーヒーを見る。 もう湯気も立っていない。
安武 陸
「正直さ、俺、どうしたらいいのか全然分からないんだ。 急に師匠がいなくなって、誰もそれを覚えてなくて」
敷村 修也
「………」
安武 陸
「やっと師匠のことを思い出せる修也くんに会えても……、どうしたらいいのか、分からない」
安武 陸
「でも、すごく安心した。 師匠を知っている人間が俺だけじゃなくてよかったって思う」
敷村 修也
安武さんに悪いな、と思う。
違和感の原因ははっきりしても、海野標のことはまだはっきりと思い出せない。
敷村 修也
それでも、ひなちゃんとの思い出と共に生きてきた自分にとって、記憶は大切なものだ。
敷村 修也
ついこの前まで居たはずの、自分の師匠で、写真を撮るほどに親しい間の人間がいなくなったことに誰も気付いてくれないという恐怖はわかりようがない。
敷村 修也
自分がおかしくなったかとさえ思いそうだ。
敷村 修也
「……安武さん、俺はまだちゃんと思い出せては、ないんです。違和感がわかるだけで……」
敷村 修也
「でも、俺の違和感は19日の夜だけじゃなくて……もっと昔の、ひなちゃんとの思い出にも違和感があるんです」
敷村 修也
「多分その違和感は、海野のことなんだと思います。……でも、俺はもっと覚えていたはずなんです」
安武 陸
少し笑う。
安武 陸
「そのへんの話、あんまり修也くんがしてくれなかったんだよな」
安武 陸
「師匠は、灰葉陽の弟だった、らしいよ」
敷村 修也
「……名字が違うのに?って、これもどこかでやった気がしますね」
安武 陸
「名字のことはわかんないけど、この写真の真ん中にいたのは師匠だよ」
安武 陸
ペンダントを示す。
安武 陸
「この女の子の方が、多分クロニック・ラヴじゃないかって……そういう話は覚えてる?」
敷村 修也
「……そんなような話をした。しました、ね」
敷村 修也
安武さんと言葉を交わすだけでも、ゆっくりと思い出していくことがある。
安武 陸
「運命変転血戒『クロニック・ラヴ』」
安武 陸
「その最後の発動条件は、海野標の死だった」
敷村 修也
「そうだ、確か吸血鬼のクロニック・ラヴもフォロワーもずっと海野を狙っていて」
安武 陸
「……狙っていて、灰葉陽を甦らせようとしていた」
安武 陸
「詳しいことは聞いてないけど、まぁまぁ灰葉陽の関係者って話にはなるんじゃないかな」
敷村 修也
「そうだ、そう……それで、最初にこのペンダントを海野が落として……」
敷村 修也
「………」
敷村 修也
思い出してきた。
敷村 修也
この写真に感じた違和感―――19日の夜に感じた違和感のことも。
敷村 修也
「安武さん、俺も思い出してきました」
敷村 修也
「…………」
敷村 修也
「あの夜、19日の夜にこの写真を見た時のことなんですけど……」
敷村 修也
「その時には、ひなちゃんしか見覚えがなかったんです。この女の子と、ここに写ってたはずの海野の姿には、”19日の夜”でも見覚えがなかったんです」
安武 陸
「え?」 写真を見る。誰も写っていない空白を。
安武 陸
「修也くんは……、昔の師匠と面識あったはず、だよね?」
敷村 修也
「……そうです。俺はちゃんとひなちゃんの弟とも面識があるはずで、そもそも同い年で……」
敷村 修也
「でもだから、じゃあ………なんで俺は高校の3年まで気付かなかったんでしょう」
敷村 修也
この前の、ハロウィンの夜のことを思い出す。
安武 陸
「……クロニック・ラヴが」
安武 陸
「灰葉陽の正しき過去を覚えているのは、もはや私だけ、って言ってた」
安武 陸
「どっちも、周囲の人間の記憶が改変されてるのかもしれない」
敷村 修也
「………」
敷村 修也
そうだ、だからあの写真を見た時にあとから海野に聞いてみようと、そう思っていた。
敷村 修也
「………そう、かもしれません」
敷村 修也
「そうですね、海野のことを考えると、そうだった可能性は高そうです」
敷村 修也
「………」
敷村 修也
「……じゃあ」
敷村 修也
―――なぜひなちゃんを助けなかったのか。
敷村 修也
なんて言葉は口にしなかった。
安武 陸
「修也くんさ……、もし自分の記憶が正しくないとしたら、正しい記憶を思い出したい?」
敷村 修也
「…………」
敷村 修也
沈黙の間も周囲は様々な客で騒がしい。
敷村 修也
「………正直なところ、わかりません」
敷村 修也
「ひなちゃんのことで、知らなければよかったということも、知れたからこそ決められたこともあります。……だから、正しい記憶、と言われてもすぐには受け入れられないと思います」
敷村 修也
「それこそ、もう正しい記憶なんてないのかもしれません」
敷村 修也
「……」
敷村 修也
「……やっぱり、わかりません」
安武 陸
「そっか」
安武 陸
「まぁ、そうだよな。 記憶が間違ってるって言われてもわかんないよな」
安武 陸
「そもそも、どうにかする方法があるって訳じゃないし」
安武 陸
ぬるくなったコーヒーを一口。
安武 陸
「俺はさ、全部受け入れるしかないのかなって思ってる」
安武 陸
「ここにいない人は、もう何も話してくれない。今、こうなってるっていう事実しかない」
敷村 修也
「……そうですね」
敷村 修也
「それこそ、記憶や思い出しか残ってません」
敷村 修也
「でも、突然何もなかったことにはならないはずです。本当なら、写真だったり、誰かの記憶に残ったりして。その人の記憶の中ではしゃべってくれて、人生に影響を与えて」
敷村 修也
「……だから、全部なかったことにするのは……」
敷村 修也
「あんまりだな、って思います」
安武 陸
「うん」
安武 陸
「あんまりな話だよ」
安武 陸
お冷のグラスの氷が、からん、と鳴った。
安武 陸
「修也くん、たまにでいいからさ。 師匠の話させてよ」
安武 陸
「俺もあの人のこと、知らないことばっかりだけど……、話したいんだ」
敷村 修也
「……ええ、ぜひ」
安武 陸
「そんなの、ただの俺の自己満足だけど」
安武 陸
「……それくらいしか、残された人間にできることはないから」
敷村 修也
「……そうだ、赤木さんや光葉さんも呼びましょうよ」
安武 陸
「そう、だなぁ。 思い出してくれそうだもんな」
敷村 修也
「きっとそうですよ」
敷村 修也
「きっと思い出してくれます」
敷村 修也
そういって冷めきったココアを啜った。