-DAY17-


「……ディド=パシャだな」

 見覚えのない男だった。名前を呼ばれる覚えもなかった。
 獣の耳の生えた男だ。傲然とこちらを見下ろし、それだけを問いかけてくる。
 ディドの郷里では獣の特徴をその身に表した人間はいなかったが、さまざまな世界の種族が集うこのテリメインでは珍しくもない。あのクロニカからして角が生えている。鱗をその肌にびっしりと生やしている人間も見たことがあった――ディドなどは、そもそも鱗のある生き物をはじめて見たのが、ここへ来てからのことだ――

「何故知っている」

 潮風が頬を撫ぜる。海の匂いに慣れ、郷里のそれと比べ思い出すこともなくなって久しい。ただ、思い立った時に宿を出て、当てどなくうろつくことは習慣になっていた。船室に凝る空気は湿り気を帯びていて、こちらは慣れることがなかった。
 外に出れば波があり、風がある。考え事をまとめるにも、気を紛らわせるにもちょうどよかった。
 ただ、この時に限っては、宿でだらだらとしているだろうクロニカのことを思い出さずにはいられなかった。男は確かに、剣難な雰囲気を漂わせている。

「……調べたからだ」

 獣の耳が跳ねるように動く。体格がいい。ディドよりも頭半分程度は上背がある。

「何の用だ」
「……別に、お前自身に用があるわけじゃない。だから安心しろ」

 吐き捨てるように言い、続ける。

「クロニカの方だ。用があるのは。……単刀直入に話す」

 ディドは眉根を寄せた。男はこちらの沈黙を続けろという意味に取ったのだろう。さらに口を開き。

「……金は出す。アレを俺に寄越せ」

 押し殺すような声で言った。

◇ ◆ ◇

 男の言葉、目つき、振る舞い、すべてが気に障る。
 浅薄な言葉で相手を理解しようとすることも。金で人間の身柄をどうにかしようとすることも。何よりそれをクロニカではなくディドに告げたことも。
 男の言葉からは汚泥のような醜いにおいがした。
 頭の後ろが熱を持ったようにぼんやりとして、はらわたが煮えくり返るようだ。海に放り込まれても、怒りは冷えることがなかった。
 後悔があるとすれば、はじめからスキルストーンを使っていなかったことだ。はじめから毒を使っていれば、多少はやりようがあったろう。海に引きずり込まなかったことも敗着だった。
 男は戦い慣れており、スキルストーンではない見知らぬ力を使っていた。まともに当たるのが間違いだったのだろう。

「…………確か、エイニ……?」

 クロニカが、ぼんやりとした顔で呟いている。ディドは海水をたっぷり含んだ布を絞りながら、続きを待った。

「……狩人で………。……そういえば追われてるんだっけ……」

 首を捻りながら、はっきりしない口調でいうクロニカは、あいまいな記憶を絞り出すようだ。
 クロニカの故郷の話を、ディドは何度か聞いているが、追手がかかっているという話は聞いたことがなかった。どこまで危機感がないのか、それとも頭が悪いのか。今まで接してきた限りでは、前者だとディドは考えてはいたが。どうもクロニカとの会話には軋みや歪みがある。

「狩人」
「同族狩りの」

 さらりとクロニカが舌に乗せた言葉の意味が、ディドにはとっさに取れなかった。後で確認すればよいことだ、とも思う。頭がまだ熱く、落ち着いていなかった。

「そうか。仕留め損ねた。次は殺す」

 話を切って、宿へ足を向ける。クロニカが付いてくる気配がある。なぜ、という訝し気な声が、後ろからかかった。

「腐臭がする」

 人間をモノのように扱うような。その枠組みにこちらを引き入れ、あの男どもになぞらえるような。
 吐き気のするような醜悪な言葉の連なりを。ディドはもう思い返す気にはなれなかった。金で人を買おうとするならば、その報いを受けさせるだけだ。

「……わかんないけど、狩人だからたぶん、相当強いと思うんだけど……」
「なら協力しろ」

 あの男が手練れであることは分かっていた。あとはどう殺すかだ。
 ディドはクロニカが戸惑うような声を上げるのを無視して、木組みの足場に濡れた尾を引くようにしながら、宿へ足を向けた。