-DAY3-


 ――媚びねば生きて行かれぬのだ。


 親に手放されたその時から、繰り返し、入れ代わり立ち代わり、さまざまなものがディドにそれを教え込んできた。
 父親であった男に手渡された袋一つの銀貨が自分の対価であった。ふたりは安堵するような、引き攣ったような、奇妙な顔をしていた。

 此処では、強いものの庇護に置かれ、守られていなければ、生きていくことはできないのだ。
 桶一杯の水を得ることにすら苦労する不毛で渇いた土地には何人にも所有されていないものはなく、いつもどこかで奪い合いが起こっている。人の命とて例外ではなかった。というよりも、奪われるものとしては典型的であった。

 弱いものたちはひっそりと息をひそめ、自分たちの主人なるものの勘気に触れないことを祈っていた。家を奪われ放り出されれば、夫婦であってもその体裁を保っていられない。別々にその命に値段がつけられ、売り払われていくのが落ちだ。
 であれば、子供ひとりの対価として金を受け取れたのは相当の幸運であったはずだ。が、金を受け取った彼らがどのような気持ちでいたのか、それはディドには分からぬことだった。今生きているかも分からない。

 賢そうな子だ、と言われたのを覚えている。
 雲一つない、厳しく晴れた蒼穹のことも。

 どうしてあの時、家の外に出ていたのかを覚えていない。
 どの家もかたく扉を閉ざし、集落はしんと静かだった。石を拾い上げ、放り投げて、ひとりで石どうしをぶつけて遊んでいた。
 あり得ないことだった。
 不毛で渇いた土地には、何物も、誰かの所有物でないものはない。かれらも、それを分かっていたはずだ。わが子を家の奥に押し込めて、息を潜ませ、じっと隠れていたはずだ。あの静かな家々の中にいた人々と同じように。
 どうしてあの時、外にいたのか。
 ……賢そうな子だ。
 あれは、師であったろうか。


 * * *


 潮騒の音にまだ慣れない。
 寝付きもそうだが、夜中に不意に目が覚めることも多かった。波に合わせてゆらゆらと足元も揺れ、部屋の中がわずか傾くこともある。

 眠り直せずに外に出ると、外に広がるのはどこまでも続く海原と白波だ。遠く高い星空の下に、ぽつぽつと此処と同じような筏宿の足場が見える。潮風が生ぬるく肌を撫で、海の上を渡っていく。生臭い、というのだろうか。嗅ぎ取れるにおいも、やはりまだなじみのないものだ。

 ディドの郷里に、海というものはなかった。

 船舶も、この宿の足場になっている木もない。その代わり、テリメインの中には渇いた地面というものはほとんど存在しないという。かけ離れているどころか、まったく真逆の世界だった。
 これだけ水面がどこまでも続くならば、水に困ることもあるまいと初めは思ったのだが、海水から飲料に使えるような真水を作り出すには、どうも手間がかかるという具合らしい。
 だがそれを除けば、――人の手が未だ入っていないところが多いものの――テリメインは驚くほど豊かな世界だった。集まってくる者たちの顔も、故郷では見たことがない。種族の別や化粧のことではない。表情が違う。

 テリメインには、未だ支配するものとされるものがいないのだ。
 これも、郷里とは真逆である。

 ディドは息をついて、手首に目を落とした。
 雇用にしてみても、雇う側と雇われる側の立場は対等だ……これについては、テリメインにおいても場合によりけりだろうが……少なくとも、そうした関係性は自分の求めているもの、手に入れておきたいものの一つであるように思えた。
 結果として自分の身を文字通り傷つけることにはなっているのは、それは、不本意ではあったが。

 真っ直ぐ前へ手を差し出す。心もとない明かりに照らされた闇の中で、上衣が風に流れた。此処で踊れば、布が風に乗って映えるだろうという考えが頭に浮かんだが、やめた。今や、何の意味もない考えだ。
 媚びなければ生きて行かれない。けれど、それはあの狭い世界の中での話だ。
 誰かに阿る必要はない。赦しを乞うことも。
 ディドは拳を握り締めると、夜の海原に背を向けた。