-DAY3-


拾ったもの
手紙を何枚か 探しものだとか宣伝だとか 哲学だとか 神がどうだとか あととも子
写真 きらびやかな男の笑顔が映っている どうしよう
花 あざやかに赤い 枯れてしまいそうだ

自分の手紙が一枚、戻ってきてしまった
海はこの問いには答えてくれないようだ



☆ ★ ☆



 ヒトを欲に駆り立てる根本には不満足があるのだと聞いたことがある。
 満ち足りていないからこそ何かを欲し望む。欠落があるからそれを埋めたいと思う。乾いた土ほど水をよく吸うのと同じく、足りていないものが大きければ大きいほど、何かを求める心も強くなる。
 つまり渇望するとは、自身が満たされていない状態であることを示す行為なのだ。

 ディド=パシャという男が上機嫌な様子を、クロニカはおよそ見たことがない。
 とりわけクロニカに報酬として”糧”を支払う時は特に不機嫌に映る。

(とはいえこればかりは無理もない)

 と、思う。
 クロニカがテリメインの探索に同行するためにディドから支払われている――もしくは、これから支払われることになる――金銭は、命のかかった危険を伴う仕事に対するそれとしては相場より相当の破格らしい。
 それは契約を結ぶときにクロニカがディドから告げられたことで、クロニカも正しく認識した上で了承している。
 長く暮らしてきた郷里を飛び出してきたクロニカには当然外界に身寄りも知り合いすらあるはずなく、またろくに働いたこともなかった。雇ってくれる人物がいるだけで万々歳、望む報酬は暮らすことに不自由しない程度があればいい。文句の出ようはずもなかった。

 問題は金銭以外に関してだ。



 海の家”かもめ亭”。
 獣人の店主が経営するイカダの上の海の家だ。
 クロニカとディドはその簡易宿泊スペースにひとまずの仮宿を取った。

 ディドが無言で差し出したコップを両手で受け取る。
 コップの底でひたひたに揺れる血を赤い瞳に映して数拍ののち、意を決して一気に煽った。
 喉を通るどろりした感触と鉄臭さに思わず眉が寄る。
 えずきそうになるのを押さえて飲み下すと、吐き出した息からも鉄の気配が感じられて嫌になった。溜める暇もなくまたひとつため息。

 週に二度、報酬として血の提供を受ける。
 クロニカがディドとの雇用契約を了承した、或いは一番大きな条件だった。

 空になったコップを置く。部屋と同じくこのプラスチックのコップも店から借りたもので、使い捨てることのできるものらしくクロニカには都合がよかった。
 返すならきちんと洗うとはいえ店の備品に血を注がせるのはなんとなく申し訳ない気がするからだ。それくらいの常識は身についてきている。

「……ずいぶんと飲みにくそうだな」

 口を濯ぐように水を飲むクロニカに低く抑えた声が届く。
 傷を作った腕に止血処理を施しながら、ディドがこちらを睨んでいた。
 本人にそのつもりはないのかもしれないが目付きの悪さと押し殺したような声音が醸し出す雰囲気は十分に威圧的だ。しかも床に座っているクロニカと椅子に座っているディドでは高低差も生じているので見下される格好になる。
 だがクロニカは大して怯みもせず、

「まずいものはまずい……」
「……自分から言いだしておいてその言い草か」
「そういう契約だから、正当な権利だ」

 聞こえよがしに舌打ちが響く。
 ますます機嫌を悪くした様子の雇用主に、なにやら取り繕うべきかクロニカは思案して口を開いた。

「……飲み慣れたら、もう少しは、慣れるかもしれない」

 あ、失敗したかも。
 ディドの目が胡乱げに細められるのを見たクロニカが次の言葉を探すより先に、

「……飲み慣れていねえだと」

 耳に届いたディドの言葉の、真意が掴めず目を瞬いた。

「……ええと」
「お前は、生きるのに血が必要だと言ったな」
「あ、うん」
「なのに飲み慣れていないのか、と聞いている」
「――あ」

 生きるのに血が要るのに飲み慣れていないというのはどういうことだ、今まではどうやって生きていたのか、ということを訊かれているのだ。
 言われてみれば確かに不審極まりない。ディドが訝しむのも無理はない話だ。
 どう説明したものかクロニカは腕を組んだ。ものを考えるときに取る姿勢だったはずだ、これが。

「……今までは別に、飲まなくて良かった」
「…………」
「けど、色々あって、体質が変わったので、必要になった」
「…………」
「…………。その、まあ、止むを得ず飲んでるって感じではある。……血じゃなくてもいい、けど、本当なら」
「……何と言った」

 ばちりと目が合う。
 昏い瞳の奥底から真っ直ぐに射抜かれて、咄嗟に、まずい、と思った。口を押さえる。

「……本当なら」
「その前だ」
「……け、けど?」
「その前」
「…………」
「その、前、と言った」
「…………」

 よくわからないがやっぱりというか多分というかこれは恐らくまずい流れだ。
 尋問されているような気分に、ディドの顔を見るのがなんとなく怖くなって目を落とした。裸足の足首に金の装飾を眺める。粗野で荒っぽい雰囲気を出そうとしている割に所作の美しいこの雇い主は、足も同じように爪先まで整えられているように見えた。
 関係のないことをぼんやり考えているクロニカに、しかし緩むことなく容赦なく、穴が開くほどに視線が注がれているのを肌で感じる。
 気まずい。たいへんに。
 もう一度舌打ちが耳に届いて、思わず身が竦む。

「……その」
「…………」
「……血じゃなくても、いい、とは言った。ものの」
「…………」
「……今は、一番、血がいい……」
「不味くてもか」
「…………」

 頷く。実際不味いが。ヒトが飲むものじゃないとは思っている。吸血鬼なら美味しいんだろうか。多分そっちの血は混ざっていないので全く気持ちが分からない。
 はあ、と今度はディドの溜め息の音。

「……俺はその不味い報酬のために自分の身を切り刻んでいる。こちらの身にもなれ」
「ごもっともで……」
「他に手があるんだろう」
「…………」
「…………」
「……ある。にはあるが、嫌だし……」

 恐る恐るディドの様子を窺ったらやたらめたらに怖い顔をしていたのでやはり目を逸らした。ぼそぼそと言い募る。

「……嫌だし、多分、ディドも嫌がると思う」
「それは、お前が決めることじゃねえ」
「…………」
「…………」

 お互い無言。気まずい。
 沈黙の中、波の音が耳に届く割に揺れはほぼない。海の家の店主の力によるものと聞いたことを今思い出す。お陰様で至極快適であった。
 この状況は全く快適ではなかったが。

「クロニカ」
「…………」
「言えねえのか」
「……言いたく、ない」
「…………」

 こちらを睥睨するディドからはお話にならないといった風情が漂っていた。
 しかしクロニカにしてみれば割合切実だ。言ったところで別に命に危険が及ぶだとかいう問題ではないのだが、言いたくないは言いたくないし、これに関しては他言しない方がいいとも伝えられている。
 世間を知らず流言を真に受けては訳の分からない言動を繰り返している自覚のあるクロニカだが、できればそこは譲らずにいたかった。

 が、それでこの雇用主が納得してくれるかどうかと言えば話は別だ。
 相変わらず視線は冷たい。重い空気も変わらない。

 横たわる沈黙を破ったのは結局ディドの方だった。
 溜め息。おずおずと面を上げる。視線が合うと、諦めたように首を振る姿が見えた。
 機嫌はまだまだ悪そうだったが。

「もういい」
「ディド」
「条件を呑んだのは俺だ。今更覆さない」
「それは確かに」
「……いや、言え」
「えっ」

 嫌だと首を振ったら、前触れもなく背を向けられた。もういい、ということなのだろう。
 命拾いした気持ちで立ち上がってももう何も言われなかったので、クロニカは安心して部屋を出た。



「……どこに行っていた」
「食べ物が売っていた。買った。えーと……ヤキソバ。フランクフルト。ディドは食べないのか」
「食べない」
「そうなのか。肉とか食べないとたぶん血とかできないぞ。けっこう困る」
「いい加減にしろ」