仕事から離れて久しかった。
誰かの身を案じながら行動するというのも、それ以上に久しかった。
だからだろうか。一人になった瞬間、気が緩んでしまっていたのは。
だからだろうか。こんなにもあっさりと、隙を見せてしまったのは。
「手を挙げろ!」
そう命じたのは明らかな子供の声だったし、自らを取り囲むその姿も間違いなく子供であった。
痩せ細った子供たち。手に手に刃物や棍棒の凶器類を携えていて、銃を持っているのは最初に声を上げた少年だった。
AK-47、カラシニコフ小銃。突撃用にと小型に設計されたそれを絶対的なものとして、縋るように抱える姿が目の前にある。
覚えてしまったのは既視感に相違なかった。
「………」
黙ったまま両手を肩口まで持ち上げると同時、周囲の状況、自分を取り囲む子供の位置と人数とを確認する。
暗い路地裏。自分は霧から出てきたところ。通常の人間が通行することは有り得ない。
――恐らく目撃者もいない。助けも、期待できない。
「よし。いいぞ、大人しくしろ。そのままだ……」
自分を取り囲む少年たちの顔に、優越感が浮かんでいるのが見て取れた。それは極限にまで痩せ細った、それでも捕食者の顔。集団で獲物を襲い、骨の髄までむしゃぶり食らい尽くす獣のそれ。
自らの絶対的有利を、疑いもしていない瞳。
背後からウエストバッグに手を伸ばす少年も、恐らくは、同じ表情をしているのだろう。
それを叩き潰すのは、随分楽しかろうと、思った。
「――ッ、あ?」
背中越しに聞いたその声は既に驚きに満ちていて、それだけで少しばかり胸がすいた。それでも、まだまだ足りない。
余裕に満ちた素人の集団の不意を付く程度のこと、他に例えようもないほどに容易かった。呼吸よりも自然に、挙げていた掌をミリタリーマントへと滑り込ませると、その下のククリナイフを鞘から抜いた。
その延長線上の動き、弧を描いた白刃が――伸ばされた手首を切り落とし、目の前の少年の掌から銃を弾き飛ばす。唐突な衝撃と共に軽くなった腕の意味を悟る前に、既に刃は彼の頭を叩き割っていた。噴き上がった脳漿と血潮が、飛び散った皮質が、地面を壁面を少年たちを、――自分を濡らし、汚していく。その感覚が、鼻孔を突く臭気が心を満たしていく。
手首を落としたのは既に無力化したと判断した。視線を巡らすと残りは左右に二人。棍を片手にナイフを片手に、状況を把握できていないのか、呆けたような顔をして突っ立っている。
残り一人。既に肉塊となった少年の隣で、頽れるその姿を間近に認めていた、比較的幼い子供。生温かい液体に濡れて、生温い肉片を浴びて、戦慄に凍りついた瞳が気に入った。
何にも気付かぬままの愚者よりは、恐怖に身を浸した智者の方が殺し甲斐がある。
つい先ほどまで呼吸を続けていたそれを砕いた刃を、すぐさま横へと滑らせる。畏れを張り付かせた首はその刃に断ち切られ、表情をそのままに地面まで転がり落ちる。遅れて倒れる身体。斜めに傾いでいくその様は、スローモーションがかかったかのように緩やかだった。
「……あ、ああぁあぁあぁぁぁ! ひ、ぎゃあああああぁ、あ――うあ、あああァァァアァァッ!?」
耳に響いた声は、綺麗な三重唱だった。両脇と背後から響く、見事に調和したステレオサウンドの不協和音。
遅れて恐怖を会得してからの反応は三者三様で、それがまた面白い。手首を切り落とされた少年はその場にしゃがみ込む。ナイフを握り締めた少年は、それを構えたまま立ち尽くす。
「う、あァ……あ、くッ、くそぉぉぉあぁがぁああぁっ!!」
残った一人――棍棒を手に持つ少年は、更に咆哮を重ねて蛮勇を奮い立たせ、その得物を振り下ろしながら躍り懸かってきた。
彼の勇気に敬意を表して、頭でその一撃を受ける。鈍い衝撃に頭が揺れた。頬を伝う粘ついた感覚は、血潮を浴びた今では今更だ。
「……げ、ぽっ……?」
その程度の話だった。突っ込んできた彼と交差するように突き出しただけのククリナイフが、彼の貧相な腹筋を容易く破り、柔らかな内臓を抉り貫いていた。そのまま同じように、横へと斬り裂く。殆ど半身を生き別れにされるような形で、その少年は呆気なく命を落とした。見上げた瞳は何も映していない。
最後まで何が起こったか理解せず死んでいく、その姿が哀れで愚かで――ブーツの底で、瞳を潰してやった。体重をかけ、踵で覆い隠した顔を踏み躙る。くぐもった喚きがだらりと開かれた口から漏れたが、彼が意味のある言語を発するだけの能力はとうの昔に失われていた。この手で奪った。
「あ、ぐがあぁぁが、ぴ、ぎェッ……ッ……」
声が途切れてから足を上げる。既に顔の原型を留めていなかったことに満足して、先程から置物となっていた少年たちへと目を向ける。立っているか座っているかの違い。先に、立っている方を潰すことにした。どうせなら得物のある方を無力化した方が効率的だ。
その処理にも大した時間はかからなかった。ククリナイフを振り上げて左の肩口に叩き込む。反りのある大きな刀身は、その形状と重さと自分自身の腕力と、三つの要因を以て彼の身体を破壊した。肩から鎖骨を割り頸動脈を断ち切り、肺腑を裂いて心臓までへ到達した刃先は、視覚的に極めて分かり易く、この少年の死を確実なものとしていた。特に、心臓までを抉られているのが、斬られた頸動脈から大量の血液が噴き出ているのが非常に分かりやすくて素晴らしい。
「………! ッ! ………!」
声にならぬ声は、呼吸音として耳に届いた。背後を振り返り、恐慌に声すら出せぬままの少年を見下ろす。断ち切られた右の手首を押さえて、あったはずのその先を見つめて、その少年は自分をすら意識していなかった。
それが癇に障った。
「ぎ、げぅっ!?」
腹部を強かに蹴り飛ばせば嫌な音が響き、細い身体は呆気なく吹っ飛んで地面を転がった。感触から肋骨を数本やったと思う、どうせ大した強度もないのだ。うつ伏せに這い蹲って痛みを堪える少年は、近付いてくる足音に身を竦ませてこちらを見上げた。慄然と疼痛と動揺と錯乱と後悔と憎悪と怨嗟と、この世の全ての負の感情を背負い込んだような瞳がたまらなく美しい。
その黒い鏡に、自分の顔が映る。赤く染まった顔は目を光らせて、確かに笑っていた。嗤っていた。哂っていた。
「……あ、ああぁ、あ……こ、んな、なん、ッ」
「殺されそうになったんだ。仕方ないだろう?」
膝を下ろすと、なるべく近くへと目線を合わせてやる。配慮などではなかった。その瞳をもっと近くで見ていたかった。よくよく観察してやりたかった。
「ここ、ろそうと、とか、殺す、とか、そん、殺し、殺して」
「私を殺すか? 怖いな。それは怖い。本当に怖い。死にたくないんだ、私はまだ」
「ころ、し、ちがうッ、こ、ころ……ころす、ない……こっ」
壊れた人形のように首を振るから、顔の前へとククリナイフの刃を添えてやった。見事に静止する様子がおかしい。背後から忍び寄る役だったのも含め、こう思った。
「……生き汚さは一級品だな。あの中では」
なら、それには報いてやらねばならない。
「さ、ない……から、からッ、ァ、ああぁ、あ……ッ」
こちらの声も聞こえていないようだった。ゆっくりとククリナイフを持ち上げる。目の前から刃が消えても未だ静止したままで、少し惜しくなった。どうすればまたあの首振りが見られるか、と考えて、面倒だから諦めた。代わりにもう片方の手首を飛ばしてやる。
「ひ、ぎッあァぁああぁぁッ!? えづゥあ、がッふ、ぎ、いが、ああァ!!」
ついでに左肩を少々抉ってしまったが仕方なかった。そこまで繊細に扱ってやる義理もない。何よりもこのままうつ伏せのままではやりづらくて仕方ない、肩を蹴っ飛ばして仰向けにしてやる。傷口を蹴られた痛みに捩りかけた身体を、その腹部を踏み付けて地面へと縫い止める。
「ぎう、ううっ、ああアァァ……あ、はァ、がががっが、が……ゥ……!」
腹部に靴が減り込んでも、悲鳴がくぐもったものに変わるまでには時間がかかった。痛覚が麻痺し始めているのだろうか。拷問をする側にはあまり回ったことがなかったし、いまいちそのメカニズムには自信がなかった。
とりあえず、と踏み躙っていた靴を持ち上げ、胸部の中央へと振り下ろす。べこん、と心臓マッサージにも似た形で打突部位が凹んだ。更に骨が折れた感触もした。心臓は止まっていない。再び上がった叫びがそれを証明していた。少し安堵する。
「生きたくない、と思うまで続けてやる。……なあに、どうせ生き残ってもクズみたいな生き方しかできないんだ。僥倖だろう?」
「え、げああぁ、いぐゥゥゥっ……が、ぷぇ、えおぅっ」
相変わらず、反応はない。水音混じりの奇声を上げ続けるだけだ。その原因が血であるか涎であるかを調べるために、とりあえず口を裂いてみることにする。透明な液体が流れれば涎だ。絶え間なく叫び続ける口腔へと慎重に刃先を差し入れると、その端から静かに切り裂いていく。
「……あ」
途中で気付いた。これでは血が溢れるから、よしんば原因が涎であっても透明な液体が溢れる筈もない。血が原因だったなら、それでもやはり赤い液体が溢れるだろう。つまり、このように。
「ぱ、あばァああぁ! び、ぐげぇっえああぁっぶぎぃ……ッ! ふぇ……っ」
せめて刃のない方で拗じ開けていたのなら事情は違っただろうか。既に後の祭りだが。口裂け女ならぬ口裂け少年は、切り裂かれた口端から赤い液体を止め処なく流している。漏らされる声にも既に力が失われつつあった。
面倒になってきた。声を聞けなくなってしまったのがモチベーションの低下に大きく繋がった。しかも瞳は既に見られない。白目を剥いてしまっているからだ。瞳を固定する術を誰か教えてくれないだろうかと願ったが、もう既に手遅れだった。
「ぴぇぎッ」
ククリナイフを口から振り抜く。仕方ない。面倒だからさっさと終わらせよう。この少年が生きたくないと思っているかどうかは既に定かではないが、そもそもそんな思考が残っているかどうかもよく考えたら怪しい。大体約束を守ってやる義理もないというか、約束すらしていない。
ならもう殺してしまっていいのだろう。ククリナイフを逆手に握って振り下ろす直前、どう止めを刺すか一瞬迷って、やはり心臓を頂くことにした。演出的に。
暗い中、飛び散った赤と紫と黒の色彩はあまり映えてはいなかった。
周囲を見回す。案の定、目撃者も、助けに入る者もいなかった。よしんば目撃者がいたとしても既に立ち去った後だし、警察が来る様子も見られない。今来ているところかもしれないが。
そうなったら少し面倒だった。流石に警察まで皆殺しにするわけにもいかない。さっさと逃げてしまうに限る、とまで考えてから、自らを浸す赤い色に再び気付いた。
面倒臭いの二乗。いや、まだ階乗とはいかないか。忌々しさと苛立ち紛れに、足元に転がった肉を蹴り飛ばしてやる。動力を失った身体が、それに見合った生命を欠片も感じさせない動きで転がった。
ついでに脳を、と思ってやめておく。そんなことをしたらまた妙な物が付く。まさに面倒くさいの二乗だ。冷静になれ。
そこまで考えたところで、目の前にかかる霧に気付いた。まだかかっているのか、と内心驚嘆する。流石は不思議霧と自らを納得させつつ、誘われるようにそちらへと足を向ける。
霧へと身を投じる直前、疑問に思ったのは、この霧が晴れた際には血混じりの足跡と血痕は途中で途切れることになるのだろうか、ということで、
忘れてしまっていたのは、自らが確かに案じていた、こちらを見上げてくる笑顔のことだった。